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2006年9月22日 (金)

坂東眞砂子氏の猫殺しに思う。

このブログでは取り上げませんでしたが、坂東眞砂子氏の猫殺しの件について、本人からコメントが出されたようです。

毎日新聞の記事はこちら。
子猫殺し告白:坂東さんを告発の動き…タヒチの管轄政府


さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。

んーなんか読みたくないオーラに満ちた文章だなあw

もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。

なにもナチスを引き合いに出さなくっても・・(;゜д゜)
あと自分自身を高等な生物/存在だと思ってないのかな。

しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。

セックスないし出産という行為が、ネコのレゾンデートルであるとでも言いたげな感じです。
誤解と言われようと、私はこの文章からこれ以上の解釈を引き出すことができませんね。

この人の作品は読んだことがありませんが・・・

坂東眞砂子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

20世紀末 - 21世紀初頭の日本人の前向きな実感は食欲と性欲しかないのではないか、という主観のもと、表現を続ける。

ふむ。
そういう了見で生きているのなら、一連の行動も、さもありなんという感じで納得できます。
この人の一番の問題は、子を産み育てること、毎日を生活することが単に快楽を貪り消費することであるとしか認識できない点にあると私は見ます。
それ以上の価値を感じられず、またその快楽も瞬時に揮発してしまうので、いずれ生きることそのものに価値を見出せなくなっていきます。
仏法的に言うと、地獄、餓鬼、修羅、畜生、人界、天界の六道を彷徨ってるわけです。
短期的な快楽や達成感、勝敗にこだわって自己/他者の生命を消費するだけって言ったらいいんですか。
さぞ生きることが苦しかろうとお察しいたします。

生命って本来、他の生命と触発しあって生きることそのものに価値を見出せる力をもってるハズです。
認識の深さ、影響の大きさで声聞(しょうもん)、縁覚(えんかく)、菩薩(ぼさつ)、仏となります。
ちなみに地獄から仏界まで人間の命の状態(フェーズ)が10あるということで、十界論と呼びます。
学会員は入会後数年のうちに基礎としてこの概念を学びます。

命にはもっといろんな使い方があるのに、人嫌いなのかタヒチにひきこもって猫殺しとは実にもったいない。
実力は分かりませんが、小説書いて上梓するだけの力があるなら、もっと色々考えればいいのに。

あと付け加えますが、この人の中ではいろいろな理屈が渦巻いているようですが、動物虐待とするに十分な客観的事実がありますので、告発は妥当と考えます。

今の世の中、この人のやることにも共感する人が多そうだなあ。
でも理屈はともかくうす平べったい人生観だなあと思う。

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