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2006年10月19日 (木)

小さな勇気を持つことから

ココログがメンテ→予想外の復活→接続障害とかなりテンションの下がったevianoですコンニチワ(´_ゝ`)

では行ってみますか。

gizmo総合案内所

声を大にして怒れ

たとえば、いじめ。
いじめられていると思ったなら、声を大にして怒れ。



ところで、なぜ「いじめ」と表記するのか非常に疑問に思っている。

(※追記:表現に不備な点がありました。「一般的な新聞等、または公の文書においてなぜ「いじめ」と表記するのか」と訂正させていただきます。)

現実から目を背けちゃいけない。紛れも無く「苛め」である。

それは子供たちの心を苛烈なまでに苛み、時として死に至らしめる苛酷な仕打ちなのだ。
私自身も中学を卒業するあたりまで強烈ないじめに遭い続けていた経験から、死をも考えるに至る子供たちの境遇と心が少しなりと分かるのではないかと思っている。

いやむしろ、大人になってその立場を離れてしまった以上、あの頃の自分の感情を取り戻すことはできないだろう。それほど苛烈な体験だった。

名誉会長の著書「青春対話」において、いじめは、いじめる側が100%悪い、と断言している。

どんな理由があろうとも、いじめや差別を正当化できることは、絶対にできない。 いじめは、人道上の犯罪であることを、皆の共通認識にすべきでしょう。
実を言うと私は最初、この話がどうしても受け入れられなかった。 私の経験上、苛められる側も原因があり、苛められないように頑張らないといけない、というのが私が出会ってきた多くの教師の指導だったからだ。 あくまでも児童は平等に扱い、決して苛める側の人間だけを糾弾したりはしない。 まず苛める人間と苛められた人間とを同じテーブルにつかせ、なぜ苛めるのか、いやむしろ「なぜ苛められたのか」を解明しようとする。

君を見てるとどうしても苛めたくなるんじゃないか?
苛めを受けない強い人間になろう。
みんなの意見も少しは聞かないと社会で生きていけないよ。

私の見てきた中では、先ほどの池田名誉会長の主張とは正反対の解決法が主流だったのだ。

「苛められる側が悪い」という認識に立った子供たちは、どういう行動に走るか。
少なくとも、自分が苛められないために取るべき方法を考えるだろう。
一番手っ取り早いのは、苛める側に回ることだ。
次に、苛めの当事者と関わりあわないこと。
こうして「いかにして苛められないか」あるいは「いかに苛める側に回るか」に心を砕きつつ、子供たちは成長して大人になっていく。

今回の事件における現場の状況を私はよく知らないが、このサイクルが動き出す前に「苛めるほうが悪い」と声を上げられる人間が必要だ。
そうしない限り、悪は、拡大生産され続ける。

名誉会長の指導に戻るが、根本にあるのは、仏法上の「悪を滅する」という指向性である。
「功徳」の功とは悪を滅するということ、徳とは善を生ずるということである。
両者は表裏一体であるため、悪を滅せずに善を生ずることはありえない。
「いよいよ・はりあげてせむべし」(1089ページ)なのである。
また同時に悪を見ながら放置したものも同罪という、実に厳しい教えなのである。

その延長線上で、聖教新聞の有名な「3面座談会」があったりするわけで、この点が特に「学会は排他的」とか、「他の宗教を批判するべきではない」とか、「反逆者に厳しすぎる」等々、日本人にとって特に受け入れがたい部分と思われるわけだが、少なくとも、どういう基本概念の上であのような主張を繰り返すか、またなぜ学会という組織が「悪を滅する」ことにこだわり続けているかお分かりいただけただろうか。

なお私は決して、今回の事件の現場にいた数多くの人たちを告発する趣旨で本エントリを書いたわけではないことをお断りしておきたい。
何が悪で、何が善か定まった見方の無い混乱した時代である。何人を不用意に断ずることはできない。
誰彼が過去に起こした苛め、またそれを見てみぬ振りした人々の過去の行動を責めても何の意味も無い。

大事なのは未来だ。

2度とこういう悲惨な子供を出さないために、私たちが何かできることがあるとすれば、悪を許さない小さな勇気を持ちたいと願うこと。

始めは小さくても捨てずに持ち続けることで大きく成長させていける。
そこから始まるのではないかと思っている。

つたない文章ではあるが、読んだ人が次にどういう行動を取るべきか、考えるきっかけになりさえすれば満足です。

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コメント

はじめまして。gizmoと申します。
トラバありがとうです。

「いじめ」と「苛め」、表記に関しては特に意識はしていません。
単語に関しては、個人それぞれのイメージや解釈あるので、
気にしすぎても意味がないと、僕は思っています。
つまり「いじめ」でも「苛め」でも、僕はどっちでもいいです。
それから、ありとあらゆるいじめを想定していて、
子供のいじめに限定しているわけでもないです。
ましてや特定の事件を指しているわけでもないです。

「青春対話」においての池田名誉会長の、
「いじめる側が100%悪い」という表現も
知っている上で今回のエントリを書きました。
だからこそ僕は、いじめられて怒ることに、
「後ろめたく思う必要なんてない」と思うわけです。

「いじめられても怒るな」というのは、
いじめる側をつけこませることになる。
右の頬を打たれたら左の頬を差し出すなんて、
いじめる側の思うつぼだと思うんですよね。
もっというと与同罪かもしれない。
いじめられている側にせよ、周囲にいる者にせよ、
すべての人が「いじめる側が悪い」と言うべきです。

僕は、いじめる人にもいじめられる人にも、
ひとしく強くなって欲しいと思っています。
ひとしく勇気を持って欲しいと思っています。
僕の言う「強さ」「勇気」は、おそらく、
evianoさんのおっしゃる「小さな勇気」と同じものでしょう。

僕に縁した人は、加害者の力の及ばない場所で、
ただこそこそと陰口を言うだけの人になって欲しくない。
現実社会で声を上げ戦って欲しいと思うのです。
だから少なくとも僕は、そんな勇気を持てるよう
日々決意して生きたいです。

投稿: gizmo | 2006年10月20日 (金) 09:23

書き方に少し不足の部分がありました。申し訳ありません。
「いじめ」の表記法については、gizmoさんの記事を拝見する前から書こうと考えていたことで、同記事の内容について指摘しているものではありませんでした。

「一般的な新聞等、または公の文書において」と追記するべきでした。

青春対話の内容についても同様の趣旨です。
gizmoさんの書かれた記事の内容についても諸手をあげて賛成の立場です。

投稿: eviano | 2006年10月20日 (金) 18:08

「いじめる側が100%悪い」って、「希望対話」ですよ~(ぼそ

さらに付け加えるとすれば、牧口先生の「良いことをしないのは、悪いことをしているのと同じである」ということでしょうね。
いじめている人間がまず悪いというのは当然です。
そして、それを傍観している者も、いじめに荷担しているのだという見解を、広めていかないといけないでしょうね。

僕も、全部の立場を経験したという過去がありますので、偉そうなことは云えませんが、「現当二世」ということで、これからは、いじめに遭遇したら、いじめられる側に立って戦っていきたいですね。

投稿: にっし~ | 2006年10月20日 (金) 21:34

ついでに、公明党の議員もいい質問をしていましたので。

http://www.komei.or.jp/news/daily/2006/1020_03.html

投稿: にっし~ | 2006年10月20日 (金) 22:50

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