たしかに実在するモノ
本質的な議論にぶち当たりつつあるようです。
これはレトリックでも何でもなく、とにかく、理屈抜きで、自殺しちゃだめ!
あるいはこう言ってもいいかもしれません。
これはレトリックでも何でもなく、とにかく、理屈抜きで、人をいじめちゃだめ!
これはレトリックでも何でもなく、とにかく、理屈抜きで、核武装しちゃだめ!
これはレトリックでも何でもなく、とにかく、理屈抜きで、人権は大事!
最近のニュースに絡んでたくさんのブロガーさん達が議論を繰り広げておられるのを拝見しております。
まず、一つ確認しておこう。人権というのは、絵空事であることを。
人権を莫迦にしているからではない。
人権を大切にしたいから、人権が絵空事であることから目を背けるべきではないのだ。
いじめや自殺等々について、国が禁止してしまうとか、絵空事であることを自覚的に尊重して遵守していくとか、色々な視点や意見や仮説があるようですが、私のような信仰者の場合は、命とか、人権とか、存在の証明が極めて難しい対象を、まず最初に「ある」ことにして、そこから具体的な行動を起こしていくように努めています。
例えば法華経に次のような記述があります。
其身非有亦非無非因非縁非自他
非方非円非短長
非出非没非生滅
非造非起非為作
非坐非臥非行住
非動非転非閑静
非進非退非安危
非是非非非得失
非彼非此非去来
非青非黄非赤白
非紅非紫種種色
12行の中に「・・・に非ず」の否定が34回。
学会員さんには有名ですが、「人間革命」4巻で紹介される法華経の無量義経徳行品第一からの一節です。
結論から言うと、この文において否定を積み重ねた上で表わそうとしている「其身」とは「命」のことです。
命には色も形も無く、産まれも死にもせず、・・・・動いても止まってもいないが、たしかに実在している。
これだけの否定を重ねてやっとその実像を表すことのできる、非常に不思議な存在だとしています。
命が存在することを最初に宣言して絶対視しまうことは、言うまでもなく宗教的な手続きなので、言説の射程距離や効力はある程度限定されてしまうことは間違いありません。
ただ、命の大切さや、核武装や戦争の愚かさ、苛めの残酷さなどを説明する際に、科学的な証明を待っていてはあまりにも冗長であり、権力をもって禁止してしまっては本質的な効力はなく、比ゆ的な説明をしようとしてもどうしても命の存在そのものの証明に辿りつけないので、私はどうしてもこの直截的な方法しか思いつかないわけです。
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