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2007年5月 5日 (土)

バベル観てきました

異国の人々に言葉は通じない。
砂漠のただ中で助けを呼ぶ声は誰にも聞こえない。
耳が聞こえない私の声を,誰か受け止めてほしい。

何気ない人差し指から放たれる無邪気な弾丸は100m先まで飛び容赦なく命を奪っていくのに,なぜ言葉は,声は,全身を振り絞って放つ感情は相手に届かないのだろう。

目の前の人間の心は,人間の器官で覚知できない。
人間にテレパシーなんて都合のいいものはない。
ただ対象から発せられる音声とか雰囲気とか気配とかいった頼りないものを頼りにして,助け合ったり殺しあったりしながら生きている,我々はどこまでいってもそういう生き物であるという,極々単純な事実を突きつけられる映画である。

それだけのことを語るために,このような迂遠な物語が必要になるというのは,重すぎてかつ明白すぎるこの世界の実相を理解することが,我々にとっていかに困難かを逆に示唆している。
果たしてこうなった原因はどこにあるのか,遥か昔の神罰か何かか,誰のせいで私はこんな目にあっているのか,物語の全体像を知る人間はおらず,人々はただ因縁因果に翻弄され,生き延びるための必死の戦いを強いられる。

日本,モロッコ,メキシコと奇妙な因縁でつながっていく悲しみとフラストレーションに彩られたこの物語は,いずれの登場人物もコミュニケーションへの渇望を心に抱えながら,必死で生きて,時には愚かな行いをし,やり直しの効かない人生を生きていく。

思えばモロッコの人々が乗っていたトヨタも,何人のドライバーを渡り歩いてこの村に来たのだろう。
モロッコの山中の村も,渋谷のクラブも,この同じ時間,同じ世界に存在しているんだという極めて単純な事実。
モロッコの利発な次男坊も,聾の女子高生も,メキシコ人のベビーシッターも同じような欲望を持った人間であるという事実。

そういう剥き出しの事実を突きつけ,さあ共に考え対話しよう。そういう映画である。

救いがあるとすれば,言葉よりもっと奥底の,五感に訴えることでなんとか成立するコミュニケーションとか,耳が聞こえなくてもゆっくり話してくれる人がいればいいとか,大きな音とか声ならば身体で感じられることとか,逃げる鶏をつかまえる楽しさだとか,撃たれたくない,死にたくない気持ちとか,手のひらに伝わる乳房の感触だとか,人間にはそういった感覚が確かにあるということが確認できることだろう。特に音に関しては,銃声の怖さとか,やはり映画館の音響は効果的だと思った。観終わった後に得られる何かとらえどころのない実感-この映画で得られる実感は明らかに「体験」と言っていい。いつか人は分かりあえる。そういった確信を持って映画館を出られれば幸いかなと思う。

後は余談になるけど。
「私この映画に関わりました」という人が,なんか異常に多そうな映画。
それはきっと,この映画の仕掛けそのものではないだろうか。
かなり製作に時間がかかったようだし,これだけの仕事をまとめあげた労力にただただ脱帽。

また,東京の描写がポップ過ぎとかいう話も聞くけど,私の持っている東京のイメージに限りなく近いというか,ハリウッドの人たちが作るうんぬんかんぬんに比べて,非常にリアルじゃないかと思う。
菊池凛子,なかなかすごいです。毛とか。若くて淋しくてたまってる感じがもうなんかオーラ出てきそうです。出ないからこそ成立する映画ですが。

あと見所は弾さんの部屋ですね。
鹿の剥製は小道具でしょうか?まさか弾さんの私物とかw

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